21th『人差し指』。

目が覚める。ベッドの脇に置いた携帯電話を探して、時間を見れば、まだ朝の五時だった。
もう少し寝ておこうと思って枕に後頭部をうずめて布団をかけ直した。持ち上げた布団のスペースから、かけ直したときに出来た風が顔に当たる。
二十センチの距離もなく、同じ布団で寝ている彼女の髪が少しなびく。シャンプーの香りがする。どこのシャンプーだったかな、と彼は考えた。
その香りは鼻腔を刺激し、胸の中を暖かい衝動で埋めていく。
ぎゅっ、と抱きしめてしまいたい。
そんな衝動が胸で渦を巻いたが、彼は無理矢理に静めて、代わりに頬をなでてから右の人差し指で突付いた。
やわらかい。
少しだけ衝動が満たされた。
彼と彼女の付き合いはもう一年半をとうに過ぎているのだが、倦怠期らしいものはまだ来ていない。そして、このやわらかい感触は未だに飽きない。
だから彼は、二人きりの時はこの感触をいつも楽しんでいる。楽しみすぎて彼女から最近は制限されているくらいに。
何かの小説ではないが、ぎゅっ、と抱きしめると『充電される』ようにすぐに満ち足りていく。充足感を一番味わえる手っ取り早い方法だと彼は思っている。
でも、抱きしめる行為はなかなか出来たものでもない。公共の場でやれるほど羞恥心がないわけでもないし、彼は行う前に彼女に『一応の許可』をするからだ。
今は、同じ布団の中で抱きしめる相手は寝ているので返事は聞けない。聞けなければ充電の意味がないと思っている。寝ているのだから、ブレーカーは落ちているのだから。
そういうわけでやわらかい感触を楽しむ。ブレーカーは落ちていても楽しめる。
くすぐったそうな可愛い顔が見えないはつまらないけれど、寝ている顔も可愛いのでもう一つ我慢した。
この行為の利点はゆっくりじわじわと気持ちが拡がっていくことだ。
そして、難点は拡がるスピードを間違えると止まらなくなり衝動が余計に大きくなっていくことだった。
なでて、突付く。突付いて、なでる。
頬から外れ、色素が薄い少し厚めの下唇にまで及ぶ。頬と違う弾力が楽しい。
衝動の軌道が少しずつずれてきた。まだ彼女に起きる気配はない。
肩より長いやわらかい栗毛をなでて、右耳を出す。耳の軟骨の外周をなぞり、耳たぶへ。ちょっと指で弾いてから内側の軟骨へと指を進める。
内側に入り込むときに耳がびくっ、と動き、瞼がぴくぴくして睫毛が揺れるのが見えた。
起きたと思って、心臓の鼓動が一瞬早まる。
彼女は起きず、まだ静かに寝息をかいていた。今更こんなことでどきどきするような間じゃないのにな、と彼は頭の中で苦笑した。
どきどきついでにちょっと背徳な行為を彼は続ける。
衝動の軌道は冥王星くらいにずれていた。
迷路を進むようにしてゆっくりと道順を気にしながら指を進める。目的地に近づくにつれてなぞる強さを強くしていく。
目的地の直前で指を離して、いつもよりも彼は心を込めて息を吹きかけた。
「んっ………。」
ゆっくりと目を開けて彼女は周りを見てから、また上を向いた。
「おはよう。」
彼は満足そうに微笑む。目的は達成された。
「今、何時かな?」
上を向いたまま尋ねてから、目を擦る。
「えーっと。朝の五時半くらいじゃないかな。」
「ふーん…。早起きだね。」
そう言って彼女の口元がわずかに上がる。
幸い、彼の背徳行為は気づかれていないようだった。
「あのさ、頼みを聞いてくるかな?」
瞬きを三回してから彼女は答えた。
「いいよ。はい、どうぞ。」
同じ頼みはこれで三桁を確実に超えていた。彼女の口元はさっきよりも上がっている。
返事をしないで左腕を彼女の体の下にやって、彼女を零センチの距離に引き寄せて彼の体の上に乗せる。そして、右腕を左腕の少し下に置いてからゆっくりと抱きしめた。
彼女の重みは衝動の軌道を修正させ、小さくしていった。
彼女が浸透してこのまま一つになる錯覚は何度抱きしめても変わらない。
零距離の感覚は、彼を彼女で満たしていく。ゆっくりと、確実に、濃密に、忘れられない中毒性を残して。
彼は満ちていくときを、目を閉じて感じる。その顔が彼女は好きだった。
彼女は、右手の人差し指で彼の左耳の外周をなぞり、頬をなでて、軽く突いてから下唇に乗せた。
そして、微笑んだ。
充電の終わった彼は目を開けて微笑み返す。
微笑んだ口は開き、人差し指を咥える。
爪は三ミリほど伸びていた。

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新年最初でしょうか?
別の話を考えていて、途中まで出来上がっていたんですけれど、予想以上に長くなってしまい、そのまま放置しております。
今回からメモ帳で打ってからこっちに載せる、という方法にしてみました。そうすれば、途中で断念してもあとで思いついた時に打てますし。
で、昨日の帰りの電車での話。
席が空いたので座って小説を読んでいたら、隣の女性が思いっきり熟睡モードで体重を乗せてくるわけです。
それで、女性の髪の香りがするのですよ。
体重を感じて髪の香りを感じると、俺の場合は抱きしめたい衝動が起こるわけなのですよ。
何度か彼女は起きては体重を乗せ、を繰り返していたのですが、その間は起こすべきなのか、そっとしておくのか、で迷いつつ小説を読んで、このことがぼんやり浮かんだので、このSSを頭の中で軽くまとめていました。
無事に衝動は暴走せずに帰ってきましたけれど、これが飲み会だったりしたらダメですね。
お持ち帰りしちゃいますね。
そんな訳で、久々(かな?)に甘い感じのでございました。